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今その文太郎が県会の視察旅行に出ていたので、法事の主人役は直造に廻つたのである。だが、文太郎はかういふ町内づき合をあまり好んでいなかつたから、たとへ在宅だつたにしても、直造は主人役を買つて出たであらう。
と、房一を誘つていた。
その様子で、房一は今は隠れもない大石家の内部のごたごたを思ひ出したので、いさゝか間が悪いと云つた顔をしていた。――練吉の妻の茂子は、九月に入つてまもなくぶらりと大石家へもどつて来た。それは一日か二日姿を消していた飼猫がふたゝび舞ひもどつて来たやうな工合だつた。さういふ様子は茂子自身にあつたばかりでなく、大石家の老夫婦にもあつた。が、どういふはずみからか、今まで何年かその気配もなかつた茂子には、十一月に入つた頃から妊娠の兆候が現れた。万事投げやりだつた練吉にも意外だつた。そして、老夫婦と茂子との不和に気を腐らせていた彼は、これが案外緩和剤になるかもしれない、と考へたところが、それを聞いた老夫婦はちよつと眉を動かせたきりで、云ひ合はせたやうに黙つていた。多分、老寄としよりに特有な気の廻し方で、茂子に実子ができれば継子である正雄に対する愛がうすらぐとでも考へたものだらう。この気持は当然茂子に反映した。それに、彼女のつはりは重い方だつたので、さういふ状態で老夫婦と同居しているのは以前よりも辛かつた。で、今度は両方の公然の申し合せで、身体を休めに実家へしばらく行つていることになつた。房一が見かけたといふのは、茂子の帰るところである。
「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」
「おい」と盛子を呼ぶ声がした。
「これからどちらへ?」
「をかしな男だな」
かういふ目には、あの鬼倉との一件の後でも、多少会つていた。だが、その時も今も、房一は同じやうに何か尻ごみするやうな当惑に近い表情を浮かべ、なるべくその話から逃げるやうにしていた。その表情は、盛子の妊娠のときや道平の病気に際して現れたものに似て、何となく滑稽なところさへあつた。鬼倉の一件も、営林署の消防演習のことも、開業のはじめに彼が空想していたところのもの、あの町の人の心をしつかりと捉み、信頼させるといつた野心の点から云へば、巧まずしてその効果を果すものだと見做していゝ筈であつた。事実、さういふ様子は町の人の態度にはつきりと現れていた。あんなに大勢の人の目前で行はれたことであるのにかゝはらず、出張所で最初に口火を切つたのが神原喜作ではなくて房一であり、解決したのも房一だといふ風評さへ立つていたのである。無責任でもある代りに、どこか一脈の根柢あるかういふ風評は、今何となく房一を漠然と押し立てる方に働いている観があつた。ところが、どういふものか、房一はそれを避ける様子を示したばかりでなく、一種嫌悪の面持を見せた。
「ほう、往診かね」
これは私の若い時のことである。それから三、四年の後に、「金色夜叉」の塩原温泉の件くだりが『読売新聞』紙上に掲げられた。それを読みながら、私はかんがえた。私がもし一ヵ月以前にかの旅館に投宿して、間貫一はざまかんいちとおなじように、隣座敷の心中の相談をぬすみ聴いたとしたらば、私はどんな処置を取ったであろうか。貫一のように何千円の金を無雑作に投げ出す力がないとすれば、所詮は宿の者に密告して、一先ず彼らの命をつなぐというような月並の手段を取るのほかはあるまい。貫一のような金持でなければ、ああいう立派な解決は附けられそうもない。
相手は何か答へたらしかつたが、房一のところへは聞きとれなかつた。今まで静まりかへつて事の成行を見まもつていた人だかりが急にどよめいたからである。そして、柵の向ふでは、相手になつている男のうしろに出張所側の連中がかたまつていた。その長身の男も今更後へはひけないと云つた様子だつた。その時、房一の肩をまだ押へつゞけていた練吉の手が痙攣するやうにふるへた。
「さうさう、先だつてはお加減がわるかつたさうですが――」
「さうぢや」